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2013
06.22

再会

Category: 未分類
何度目に伺った時だろう、
「君の文章は所々飛ぶね。時々前を確認しないと脈絡がわからなくなることある。」と、三浦哲郎先生に言われたことがある。
「ものをどう見るか、が大事だと思うね。」
先生はそうもいわれた。わたしは一言も聞き洩らすまい、と思いながら聞いていた。
「俺ならここはこう書くな。」と先生はいって、わたしの原稿の余白に鉛筆でさっと書き加えた。その時、先生がどんな文章をどう書き直したのか、残念ながら憶えていない。
「いい作品が書けたら早稲田文学に推薦するよ。」とも先生はいってくださった。その頃、第七次早稲田文学が復刊していて、先生はその編集委員を務めていた。
わたしには分不相応とは思いながらも、心は天にも昇る気持ちだった。後で考えてみると、同郷の若者を落胆させまいと、先生は精一杯励ましてくださったのだろう。
その後、二十年間、わたしは自分の不甲斐なさゆえに先生と疎遠に過ごすことになった。
学園紛争花盛りし時代だった。世間知らずの若者は腰がすわらなかった。あれもやってみたい、これもやってみたい。あげくに都会暮らしに疲れ、ついに森に逃げこんだのである。八ヶ岳南麓の清里に『モロアの森』をつくり、小さなペンションを始めたのである。
しかし、転機は思いがけなくやって来た。昭和六十年、先生の依頼を受けた新潮社の宮辺さんから、三浦先生が『モロアの森』を舞台に小説新潮に連載を書きたいとのこと、いかがでしょうか、という電話が突然あった。
後で知ったのだが、先生の山荘が近くの野辺山高原にあったのだ。そのことを先生と再会するまでわたしはまったく知らなかった。わたしが知らずにいても、先生は密かにわたしの暮らしぶりを知っていたようだ。
再会する嬉しさと、長いご無沙汰、そして先生のご厚意にむくいることができなかった後ろめたさが頭の中をめぐっていく。そして、この縁は一体どういうことなのだろう、と不思議な気がした。そう思いながらも、わたしは先生のお役に立てるなら、と承知した。
「清里も随分賑わっているようだね。ひょいとあんたのことを思い出してね。なにか面白いことをやっているらしいじゃないか。」
 二十年振りの再会にもかかわらず、先生は長い空白を少しも感じさせることなく、にこやかな笑顔でいった。その時に生まれた先生の作品が『モーツアルト荘』である。

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2013
06.13

最後の夏

Category: 未分類
三浦哲郎先生が亡くなられて一年が来るんですね。早いものです。
十数年前、先生が軽い脳梗塞で江古田の鈴木病院に入院される前から昨年亡くなられるまでの間、年に七・八回ぐらいでしょうか、先生のお宅に伺い、作品を読んでいただいておりました。
先生はまだお元気で、たしか『肉体について』の連載を始めになったころだった思います。先生に本を出しませんか、と突然言われたことがあります。その時、私は先生の真意がよく理解できませんでした。何作かの作品を読んでいただいておりましたので、先生は、単に人生のけじめような意味でおっしゃった、と私は思ったのです。
昨年の七月、先生が亡くなられる一ヶ月程前のことです。先生は居間に持ち出したベッドに横になっていました。『おふくろの夜回り』が出た直後でした。
私が枕元にすわると、
「今度、これが出た。」
先生は大変嬉しそうに本を取り出して、
「筆は持てないから署名無しで・・。」と言って、本をくださいました。
「今年は、なんとしても山へ行くぞ。暑いのは苦手だ。」
先生は元気な声でそうおっしゃったのにはびっくりしました。東京は猛暑の盛りでした。
山へ行くとは、八ヶ岳の山荘へ行くという
ことです。先生は故郷を思い出すのか、ことのほか山が好きだったようです。
「そうですね、今年こそはぜひ山へ行きましょう。」と、私が答えると、先生は、枕から頭を持ち上げ、にっこり笑っていました。山行きを言い出した先生の顔は色艶もよく、すこぶる元気でした。何故か、私は安心をしたものです。
「ご予定がお決まりになりましたらご連絡をください。なんとか都合をつけますから。」と言いますと、先生は安堵(あんど)したように、
「わかった、今から楽しみだ。」
私が住んでいる清里と先生の山荘がある野辺山とは近隣の高原です。飼い犬の五郎君も一緒だったせいで、私が山への送り迎いを受け持っていたのです。
あの時に見せた先生のご様子からは、とてもひと月後に亡くなるなんて考えられないことでした。今度の作品はいいね、と言われる一編を何とか書きたいと思いながら先生の元に通い続けてきたのです。それだけに先生の不在はなんとも言いようのない空白感でいっぱいです。
「山へ行くぞ。」
先生の張りのある元気な声が、いつまでも私の耳の底に残っています。

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2013
06.04

出会い

Category: 未分類
練馬駅から住宅街の路地を抜けぬけ、石神井川沿いの小道をしばらく行くと、道楽橋という橋がある。その橋のたもとから川沿いにある三浦哲郎先生のお宅が見える。
後年、その橋を渡る度に、わたしはその名が妙に気になってしかたがなかった。ある時、「もしかして、あの橋の名付け親は先生ではないですか?」と、お尋ねしたことがあった。
「それは違う。俺がここに越して来た時には、すでにあの橋はあったよ。」と、先生は怪訝そうな顔をしたことがある。
再び小説を書いてみようと思ったことが、五十路の趣味や道楽と思われやしないか、そう思うと恥ずかしさで身が縮む思いがし、学生時代には気にも留めなかった橋の名が、渡る度に心にひっかかってくる。
大学に入学して間もない頃だった。第二外国語のフランス語を教わっていた村上菊一郎先生に、授業後呼び止められたことがあった。
「君の郷里はどこかね。」と訊ねられた。
「青森県です。」
「太宰の方か、それとも三浦の方かね。」
「南部です。」
「それはちょうどいい。一度、三浦君を訪ねたらどうだ。連絡をしておくから。」
以前、わたしは先生に作品を読んでいただいたことがあった。しかし、わたしはそれまで三浦先生の作品を一編も読んだことがなかった。『忍ぶ川』という作品で芥川賞をもらった、ということぐらいしか知らなかった。同郷の作家にたいして実に薄情な若者だった。
「はい。」と、わたしは村上先生にいった。
昭和四十一年のことである。その日からわたしは一週間授業をさぼり、持参する作品に取りかかった。もちろん『忍ぶ川』も読んだ。
事前に三浦哲郎先生のご都合をお聞きし、練馬のお宅をお訪ねした。
玄関のドアーを開けるなり、わたしは(あっ、忍乃さんだ)と、思わず心の中で呟いた。
少しも着崩れのない上品な和服姿。そしてにこやかな笑顔で出迎えてくれた奥様は、まさしく『忍ぶ川』の忍乃さんだった。
三浦先生をお訪ねすると聞いた友人たちは、忍乃さんに会えるんだ。羨ましい、と口口に言っていたものだ。
奥様と入れ替わるように出てきた先生は、「やぁ、いらっしゃい。菊さんから聞いていたよ。」といいながら、はだけた浴衣の襟元を直し、前結びの帯をぐるんと半回転させた。

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